栄養士のつぶやき No.18

心の中の宝石

北海道札幌養護学校 栄養教諭 石田 隆子

 いつの間にか栄養士生活も長くなりました。
かつて、10年ほど勤めた病院を辞め、青年海外協力隊に参加しました。派遣先は中米にあるホンデュラスという日本の国土の1/3ほどの国です。ホンデュラスは当時5才までの子どもの57%が栄養不良と言われていました。
配属先は首都テグシガルパから遠く、ホンデュラス人でもあまり行きたがらない、当時は電気も水もまともになかった、多民族の住む通称モスキティアという地域の国立の病院でした。
病院には、下痢、寄生虫、栄養不良の子ども、結核、マラリア、出産のためなどの様々な患者が来ていました。夜、この病院が急に明るくなる時がありました。それは、緊急手術などが入った時で、発電機からの電気でした。
日本から栄養士が来たということや、他国の支援もあり、病院給食を始めることになりましたが、調理器具もまともにない厨房での調理の開始でした。内戦が続いていた隣国ニカラグアからの避難民や、地元に知り合いがいない、さらに奥地から来た患者などもいて、病院給食は患者にも家族にとっても待ち望んでいたものでした。
この地域は作物の生育や、食品の流通も悪かったので、必要な食品をすべて確保することは難しいことでもありました。時として、人参の1本も手に入らないこともあり、次の食品が確実に納品されるまで、食品を備蓄しておかなければなりませんでした。病院は水も十分ではなく、病院給食を作るために車で水を運ばなければならない事もありました。
この国の宗教はほとんどがキリスト教です。ここの子ども達はいつも裸足で走り回って遊んでいましたが、日曜日には靴を履き教会に出かけていきました。厳しい生活環境の中で、この地域の人々が自然を受け入れ神を信じ生きていく姿は、とても敬虔なものとして私の目に映りました。厳しさはお互いの思いやりに変わり人間同士をどこか深いところで結びつけているような気もしました。
この国で過ごした2年間、私は言葉では言い尽くせないたくさんのことを教えられ、彼等と暮らしたたくさんの思い出と共に、私の心の中ではあの時の病院給食は宝石のように輝いています。
その後、日本に戻り学校給食に携わりました。日本の学校給食はとても豪華に感じました。あれから16年、あの時感じた豪華な学校給食は当たり前のように今も続いています。



【紹介者:札幌市立平岡公園小学校 学校栄養職員 横山 景子


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